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益子の文化
益子には国指定文化財をはじめ、県、町の指定するものまで、多くの文化財が残っています。
国指定文化財県指定文化財町指定文化財

伝統文化
町指定文化財1234567
西明寺閻魔堂(昭和48年2月7日)
所在地/益子町益子4469  所有者/西明寺
中に閻魔大王(笑いエンマ)、善童子、悪童子、脱衣婆、地蔵尊の五体の仏像が安置してある。
長堤八幡宮本殿(昭和48年2月7日)
所在地/益子町長堤914 所有者/長堤八幡宮
源義家奥羽鎮征の折、戦勝祈願地と伝えられ康平6年(1063)に創建。嘉吉3年(1443)に宇都宮明綱によって再建するが天正13年(1585)に焼失。現社殿は元禄16年(1703)に再建されたものである。
 社殿はすべて欅材を用い、欄間は前面松、左側面親子獅子、右側面夫婦獅子の彫刻で飾ってあり木鼻は唐獅子の彫刻で施され向拝柱間には波形の彫刻を施した虹梁が渡されている華麗な社殿である。
棟木に「元禄十六年龍集癸吉辰田野別当清明山普門寺 第九世宗海奉行北条清安横塚喜左ヱ門」とある。
地蔵院観音堂(昭和48年2月7日)
所在地/益子町上大羽945−1 所有者/地蔵院
地蔵院本堂の北西に位置し、阿弥陀堂(現本堂)改築の残材を使用して建てられたといい伝えられていた。昭和58年(1983)解体修理し、茅葺きを銅板で被覆した。その際柱材が栗であることがわかり残材であることは否定された。本尊は十一面観世音菩薩である。
光明寺薬師堂(昭和48年2月7日)
所在地/益子町山本 所有者/光明寺
建立は江戸中期と推定される。欅材を用い、斗拱、蟇股、飛檐垂木など精細優美である。正面中央に天保6年(1835)の銘のある鰐口がある。本尊の薬師如来像は春日の作といわれ山本古屋城主高塩伊勢守の本尊であったと伝えられる。侍仏の十二神将は素朴な彫刻である。この薬師堂は目に関する信仰が高く、縁日には多くの人でにぎわった。
安善寺本堂(昭和56年12月15日)
所在地/益子町大平202 所有者/安善寺
正面内陣は一段高く1間の須弥檀に本尊を安置、廊下は県内唯一のウグイス張りで、堂宇の斗拱、欄間、須弥檀は江戸時代中期の特徴を表している。
 現在の本堂は、享保15年(1730)に再建されたものである。
長堤八幡宮鳥居(昭和62年10月26日)
所在地/益子町長堤914 所有者/長堤八幡宮
寛保3年(1743)3月笠間城主井上河内守が、常陸国大曽村大日山より花崗岩を運び、寄進建立したものである。
鶏足寺山門(平成元年5月15日)
所在地/益子町益子962 所有者/鶏足寺
鶏足寺は大永2年(1522)山本城主高塩伊勢守によって建立されたと伝えられる。創建当時は七堂伽藍が揃っており、禅宗寺院(曹洞宗)として隆盛を極めた。明治44年(1911)に火災にあい、山門だけを残してその他は灰盡に帰した。そのため寺伝書、銘札等は現存していない。現在の本堂その他の建造物は明治44年以降に建てられたものである。
旧濱田庄司の母屋(平成元年6月12日)
所在地/益子町益子3021 所有者/益子町
益子焼を民芸陶器として世界的に有名にした重要無形文化財保持者(人間国宝)濱田庄司が母屋兼作業場として使用していた建物である。
この建物は、江戸時代後期に市貝町市塙で建築されその後茂木町菅又に移築されていたものを濱田が気に入り、昭和5年(1930)に移築し母屋として使用し、しかも国内外の訪問者の交流の場所でもあった。また囲炉裏のそばには蹴ロクロと手ロクロがあり、長屋門内の仕事場や細工場とともに作陶の中心になっていた。平成元年益子焼の伝統を伝えるために陶芸メッセ・益子内に移築保存された。
日枝神社本殿(平成4年1月23日)
所在地/益子町七井1010 所有者/日枝神社
神護景雲2年(768)の創立で、矢嶋郷総鎮守として崇められ、中世より山王神社、山王権現ともいわれていた。その後一時荒廃したが、長久元年(1040)矢嶋城主七井刑部太夫頼冶が再建した。本殿は、享保4年(1719)建立で花鳥の彫刻をほどこし江戸時代中期の様式を伝える建物である
西明寺大師堂(平成4年5月8日)
所在地/益子町益子4469 所有者/西明寺
大師堂としては町内唯一の江戸時代中期の建造物である。大師像は石造りで近郷の信者が寄進したものであり、すべてが弘法大師であることはめずらしい。