益子についてイベント情報益子焼き益子の文化パンフレットアクセス
益子の文化
益子には国指定文化財をはじめ、県、町の指定するものまで、多くの文化財が残っています。
国指定文化財県指定文化財町指定文化財

伝統文化
町指定文化財1234567
文化絵地図(昭和48年2月7日)
所在地/益子町益子660−4 所有者/大塚 正
陣屋と古館跡を中央やや南西方向に、その周辺には道に沿って家並みを描いている。西に小貝川を、東に西明寺・高館城跡を描いて道路は朱線で、下線および池は青で、山林は緑で彩色されている。また自社は、人家よりも大きく、田畑の区別は文字で表示されている。当時の地勢や人家の散在状況などを見る好個の文献である。図面裏の隅に「文化弐年八月作之助写 城内作右ヱ門持」とある。
天保絵地図(昭和48年2月7日)
所在地/益子町益子700 所有者/蛛@典男
中央やや上に御陣屋を南に八幡宮をその東に溜井を描いている。また、道路を赤で表し、御陣屋のすぐ北には御前曲輪宿通があり、西に行くと小貝川を渡り、根本村六道通となる。南西は西山御林とあり山が描かれている。北は上山境、西は至谷村山、南西は本沼村、南東は小泉境と大郷戸村、北東は前澤村境の記載がある。また、田を緑で畑を黄色で表している。そこには地番、耕地の種類と善し悪し、所有者または耕作者名が記載され、変更の場合は和紙を貼って名前等を書き直している。左下に右より「干時天保六乙未初冬図之」とあり説明を挟んで「野州大羽 紫齋光重筆 野州田野長堤村 蜻P右エ門」とある。
■ 歌舞伎舞台背景襖絵(昭和48年2月7日)
所在地/益子町山本 所有者/松本自治会
歌舞伎舞台背景の襖絵で幅0.61m高さ1.69mの大きさのものが12枚1組となっている。文政年間(1820年頃)の作品と推察できる。これを並べれば一大絵図となる。筆者は安達三楽斎元善で江戸末期の真岡出身の画家である。谷文晁を師としこの襖絵も力強く描かれている。
 指定となっている作品は、4組である。
 @鶴松の図 老松に丹頂鶴9羽を描いている。
 A高麗犬の図 高麗犬5頭が遊びたわむれているさまを描いている。
 B紅葉遊鹿の図 美しい紅葉の中で5頭の鹿が遊ぶさまを描いている。
 C雲龍の図 雌雄の龍が雲を呼び天空を翔るさまを描いている。
 襖絵は、安達三楽斎の作品のほかにも10組以上ある。以前はこれらの襖絵を使って歌舞伎を地元や近郊近在で上演していたわけだが、現在では歌舞伎のからくりや操作の仕方、舞台の作り方などを知る人が少なくなってきてしまった。



■ 真言八祖絵図(昭和60年6月4日)
所在地/益子町東田井 所有者/東田井自治会
自治会内の伝承では、蓮の糸で織ったもので、高館城落成の折、東田井の東光寺に持ち込まれ、今は自治会が所蔵管理している。東光寺はいつ廃寺になったか不詳であるが、寺屋敷、住職の供養塔は現存している。
凾書きに「宝永六己丑年」とある。
■ 襖絵(平成10年7月1日)
所在地/益子町山本724 所有者/妙伝寺
妙伝寺本堂の襖に描かれた作品で、画家安達三楽斎元善が描いた。表側に松に鳳凰、裏側に竹と梅がそれぞれ力強く描かれている。松本の歌舞伎舞台背景襖絵と同時期に妙伝寺本堂で製作されたといわれている。
 作者安達三楽斎は寛政3年(1791)に真岡の呉服商の家に生まれ、幼いときより絵を好み、谷文晁の門に入り画法を学び力量を高めていった。文晁の高足である高久靄崖、同郷の小宅文藻らとは特に親交が厚かったといわれている。松本地区にこのような作品が残されているのは、三楽斎の妻が松本の広澤家より嫁いでいることによるものと思われている。

■ 濱田庄司益子焼作品(平成5年3月11日)
所在地/益子町益子3388 所有者/益子参考館
@柿釉鉄絵丸紋大鉢 53.5×15.5 昭和30年(1955)作
 石灰釉を施した上に鉄と飴釉で糖黍と笹の模様を描き、その部分のみをワックスにて丸く押さえる。さらに柿釉とよぶ第二酸化鉄を全体にまわしてかける。ワックス部分ははじかれて釉薬は残らず、焼成後は白く抜けて丸紋となる。
A飴釉白青十字掛大鉢 54.5×13.0 昭和32年(1957)作
 飴釉を全体に施し、糠白釉と青釉にて十字にひしゃく掛をしたもの。
B糠釉紋打鉄絵花瓶 25.5×30 昭和35年(1965)作
 成型の段階でたたき紋をつけておき、鉄釉にて糖黍紋を絵つけし、全体的に糖白釉を施したもの。
C赤絵六角花瓶 9.4×22.2 昭和17年(1942)作
 会津の磁土に益子の粘土を混ぜ、型で六角の形を作り、石灰釉をかけ焼成する。そこに上絵をつけ低温度にて仕上げる。
D柿青釉白格子描大鉢 58.0×14.0 昭和48年(1973)作
 全体に石灰釉をかけておき、柿釉と青釉にて染め分けする。さらに糠白釉をひしゃくを用いて格子状に模様描きしたもの

板碑(昭和48年2月7日)
所在地/益子町大平202 所有者/安善寺
この板碑は、安善寺創建者と伝えられる平貞能の百年忌供養として建てられたといわれている。碑面には、右側に「其佛本願力聞名欲往生」中央に「正慶貮季癸酉三月九日」左側に「皆悉到彼国自至不退転」と刻まれている。平貞能は平清盛の腹心で平家軍の侍大将として源氏の将兵を散々悩ませた人物であるが、源平の合戦後、宇都宮朝綱の庇護を求めて下野に下ってきた。他の御家人の手前なかなか困難ではあるが、さりとて自分の恩人でもあり頼ってきた敗者を見殺しにするのは武士の情に反するということで、朝綱は大いに迷ったらしいが、源頼朝との縁故にすがって庇護を願い出たところようやく許可がおりた。その後貞能は大平辺りに死ぬまで隠棲していた。
小宅家文書(昭和48年2月7日)
所在地/益子町小宅974−1 所有者/小宅孝重
京都において制作し、小宅家は、永仁2年(1294)芳賀氏11代高俊の三男高真が小宅城を築いてから、慶長2年(1597)高良の代に廃城になるまで代々城主をつとめた旧家である。
差出人・年代・内容・受取人
1 宇都宮明綱(宇都宮家15代)
宛行状
享徳5年(1456)10月15日※
小宅筑前守
2 宇都宮俊綱(宇都宮尚綱の初名)
感状
天文4年(1535)10月10日
小宅行刑部少輔
3 宇都宮俊綱
書状
(年未詳)11月15日
小宅弥十郎
4 宇都宮尚綱(宇都宮家20代)
感状
 (年未詳)正月13日
小宅行刑部少輔
5 宇都宮尚綱
感状
(年未詳)8月26日
小宅行刑部少輔
6 芳賀高定(芳賀家16代)
書状
(年未詳)正月12日
小宅刑部丞
7 芳賀高定
書状
(年未詳)仲春28日
小宅行刑部少輔
8 心引齋道箭
書状
(年未詳)菊月晦日
小宅行刑部少輔
9 芳賀高継(芳賀家17代)
書状
(年未詳)10月24日
小宅弥八郎
宋版大般若経 (昭和48年2月7日)
所在地/益子町上大羽945−1 所有者/地蔵院
大般若経は大乗仏教の初期の経典で唐の玄奘が4年の月日をかけて訳したものであるが、学問の興隆とともに需要が多くなったため、中国の宋時代(960〜1275)に盛んに出版された。それらは留学僧らによって日本にもたらされ尾羽寺にも納経となった。宋版のものは校正の厳密さ、刊刻の優秀さ、用紙の良さなど内容形態ともすぐれたものが多く歴史上最良の書籍といえる。それらは「享保二十一年四月十七日」と記載された縦68cm、横145cm、深さ65cmの大箱の中に、縦15cm、横32cm、深さ15cmの小箱の中に10冊1組となって48箱がぎっしり詰まって厳重に保存されている。また小箱の外側には千字文が1字ずつ漆で書いてあり通し番号としている。巻末には「磧渚破屋室孤篷道人陸浄徳書 陳秀刊 大檀越成忠趙安国一力刊 游明刊 葉元刊」とあり、また「下野國尾羽寺」の押印がある。園通寺の良栄上人や東京小石川傳通院の了誉上人などがここで研讃したという。
木造阿弥陀如来像(昭和48年2月7日)
所在地/益子町前沢897 所有者/長谷寺
豊満な優しい容貌で、ふくよかな頬、あごのあたり純真な少女を思わせる清純な感じの像である。